九段下"寿司政"1861年(文久元年)創業の老舗すしや。
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寿司政のこだわり 座敷にぎり
文久元年創業、 老舗の味をご堪能ください


いつも、寿司政をご愛顧頂き、誠に有難うございます。
私共の寿司政も創業致しまして早、約150年の歳月が流れました。
現在でちようど五代目になります。
創業から今日までの寿司政の歩みは後記に記載させて頂いておりますが、ここで初代からの店主の人となり等を述べさせて頂き寿司政に親しみを持って頂けたらと存じます。

1861年(文久元年)に日本橋に寿司好の屋号で開業し、屋台を引きながら商売を始めたのが初代の戸張好造でございました。裏長屋に住みながら、夜は日本橋界隈、上野の黒門町、神田の茅場町界隈で屋台を出していたようです。その頃使っていた文久元年と墨で書かれた米びつが今でも、九段寿司政に物入れとして残っております

明治に入りまして、二代目太田福松の時代になって神田三崎町の歌舞伎小屋・三崎座に入り、寿司を握っておりました。当時神田三崎町には三崎座、東京座、川上座と三座有り東京の芝居小屋のメッカだったようです。

二代目太田福松は割と道楽が好きだったようで、歌舞伎小屋に通う大店の旦那衆や芸術家と親交を深めたようです。その頃をしのばすにふさわしい物では竹内栖鳳画伯が描いた「いか」と「かえる」の二枚の色紙絵が店に飾ってあります。

福松の長男として生まれたのが、三代目戸張政次郎で私の父に当たります。 三代目政次郎は、父親の反面教師といいましょうか、驚くほどの几帳面な仕事一筋の人でした。私も子供の頃はまともに口がきけません。ましてや、店の者は毎日が緊張の連続のようでした。
今も寿司政で顧問をしています樽川正二郎(現74歳)は父の話題になると、毎回包丁の砥ぎ方を見られて手がすくみ、体が凍りついた事を思い出すそうです。お客様とも直接口を利かず、母が注文を聞き父に伝えてから、すしを握り始めると云う誠に気難しい父に苦労をしたようでした。

三代目政次郎は三崎座から大正12年の震災で焼け出されて現在の九段下に店を構え、戦時中の一時期は、すしを握るネタ不足から蒸しずしなどを作っていましたが、戦後東京でいち早くすしを握り始め、昭和48年に他界するまでに現在の寿司政の味が出来上がったようでございます。
特に戦後の物不足の中で、いち早く江戸前の寿司屋として、寿司店を再開出来ましたのも、父のすし技に対する仕事一筋の姿勢と努力が各界の方々からのご援助を頂けたのかと存じます。

四代目私、太啓壽が九段下の店を継いだのが今から15年前のことでございます。
寿司政のしきたりで12歳になりますと、玉子焼きからおぼろ、こはだの〆方、あなごの煮方、ガリ等と、仕込み全般を習得することが習わしとなっておりました。しかし、私はその後横道にそれ、他の業界に進み別の道を歩んでおりましたが、 三代目正次郎が他界した後、母百合(現在96歳)は、30年間に渡り寿司政の伝統の味の仕込みを政次郎に代って職人達に教え、自ら築地魚河岸に行ってその日の魚を仕入れて居りました。母は芝百合の名で哥澤の名取として芸事に秀でていた事もあり、食に関するこだわりも強く、何事も妥協しない性格が寿司政の味を守り通してくれたようです。
そのおかげで『寿司政は職人が代わっても味が変わらない』と作家の山口瞳さんに言わしめたのかと思われます。

現在は20年前より他業種から戻って四代目として戸張太啓寿が店主をしております。そして、今年から五代目戸張正大(長男39歳)が十代の頃に祖母百合から教わった、卵焼き、穴子の煮かた等寿司全般に渡って味の継承を心がけております。

近年はすしの味もかなり変わってきているよう感じられます。
すしとすしとの合い間につまむガリ一つを取りましても、私どもからはかなり甘味を強く感じます。それはそれなりに美味しいようでございますが、寿司政のガリは酸っぱめではございますが、各々のすしの味を引き立てつなげる役目をさせております。
勿論すしの命はなんと云っても生きのよい鮮魚を如何にすしに生かすかにかかっています。 そしてもう一つのすしの本流であります煮物ネタ(穴子、煮いか、はまぐり、しゃこ)、〆物ネタ(こはだ、鯖)等も新鮮な仕入れが出来て初めて、昔から伝えられてきた仕事が生きてくると考えて居ります。それらネタと赤酢を使った握りが寿司政のすしとなります。
そして、すしとは気楽にしゃっちこばらずに召し上がるものだと、私ども寿司政では考えています。

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現在、九段下寿司政本店は北川俊介(40歳)が味を継承しております。
これからも寿司政をよろしくお願い申し上げます。

寿司政店主
五代目 戸張太啓寿